子育て論

 

昭和薬科大学 空手道部 OB 森川 智之 師範の愛読書より

昭和43年卒のOBです。私より一学年上の先輩になります。昭和薬科大学空手部のHPを拝見する機会が有り、内容を見て感動しました。道場の小さなお子さんを通わせておられるご父兄は、是非に一読願います。

 

参考文典:  1  ドロシー・ロー・ノルト 著

2        安岡 正篤 著 元号「平成」考案者、陽明学者・東洋思想家

3        平井 信義 著 大妻女子大名誉教授

4        石原 慎太郎 著 現 東京都知事

5        加藤 諦三 著 早稲田大学理工学部教授

6        中西 進 著 奈良県立万葉文化会館館長

 

 

子は親の鏡

 

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない

誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば、

子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

 ドロシー・ロー・ノルト著 : 「子どもが育つ魔法の言葉」: PHP研究所

 

 

 

人間は17才でできあがる

人間の特性に基づく性格というものは、ほぼ3才位から始まって、5〜6才頃に大体形成される。そして5〜6才頃から知性や技能の基本的なものがすでに芽を伸ばして、12〜13才が徳性、知性、技能から言っても、最も活発である。最もよく働くという意味においては、ピーク絶頂で、それが17〜18才まで続く。即ち、3才頃から始まって17〜8才で人間は成熟する。

桃・栗はだいたい3年で、柿は8年でそれらしくなる。人間は17年、それから先は、もうあまり本質的に変化しない。それから先は、そこまでできたものを、ただ動かしていく、鍛えていく、場合によっては、それを曲げていく、壊していくという善悪いずれかにしていくだけである

安岡 正篤

 

安全教育と冒険教育

けがをしない子やけがの少ない子については、子どもらしい活動(遊び)が少ないのではないかという点を検討して欲しいのです。

友達ともあまり遊ばずに本ばかり読んでいる子どもは、けがをしようにもその機会がないのです。それに反して活動の盛んな子どもはけがの頻度もたかくなります。

とくに冒険は、危険を冒すことであり、冒険心はそれによって養われるのですから、危険に直面させる状況を子どもに与えなければなりません。そこで、危険な場所やものに近づけないようにするということが問題になってきます。

冒険心を養わないような教育では、子どもの積極性や意欲は育ちません。

諸外国では、子どもの遊び場の中に「冒険コーナー」、「冒険の国」などを設けて子どもの冒険心を満たす努力をしています。ただし、その際に重要なことは、口や手こそ出さないけれども、きちっと子どもの活動に目を向けている指導員がいることです。

子どもにやるだけの冒険をやらせて、万一のときには飛び出していくことのできる能力を持った指導員です。

子どもには、危険だと思うことがあっても、それに立ち向かって、それを乗り越える力を養ってあげる必要があります。それによって自信が一つずつ積み重ねられて、危険な場所かどうかの判断が付いてきますから、安全な子と言えるでしょう。

子どもはその年齢によって異なりますが、どのように危険かどうかの認識が十分出来ていませんし、多少の危険を感じても遊びの面白さから、それに挑戦することになるのです。また、はっきりと危険だということであっても、それに挑戦するだけの意欲を育てる必要があるのです。

子どもの遊び場の増設を強く行政当局に呼びかける必要があります。都市計画の中でも子どもの立場を考えなかった行政の落ち度が、子どもの交通事故につながっています。子どもには、戸外での遊びが必要ですし、そのための安全な遊び場は、子どもの心身の発達にとって、不可欠の条件です。失われたものを、子どもに代わって取り戻す努力は、いつまでも続けなければならないでしょう。大人を犠牲にしても、未来を背負う子ども達のために…

さらに、子ども達が遊びに行く先々に、子供とともに両親も行ってみて下さい。そして危険な場所がないかどうかの点検をしておき、それを見つけたならば、子どもにも注意すると共に、行政当局にも訴える必要があります。そのような危険な箇所は、自分の子どものみでなく他の子どもも犠牲になる可能性が大きいのです。

 

けんかを忘れた子どもたち:平井 信義:PHP文庫

 

 

自然の遊び場

昔は、家庭にいるときや学校でまじめを装っても、学校がひけると、近所の友達と徒党をなして、冒険や探検に出かけましたし、畑やその他の場所を荒らし回ることが出来ました。それにより、家庭や学校で受けた抑圧から解放することが出来たのです。

自然の遊び場を奪われた今の子ども達は、家庭と学校の間を往復するだけですから、母親と教師から圧力を受けっぱなしで、抑圧から開放される場所がないのです。

その為に、積極的に遊ぶことが出来ずに、戸外の遊びを知らないで成長しています。

私どもは、毎夏六泊七日で、高原の合宿生活を一年生から五年生の子ども達としていました。この合宿は、子ども達の自発性を尊重しますから、ほとんど規則もないし日課も立てていません。しかも何をしても叱ることがなく、叱らない訓練を受けた大人が引率しますから、伸び伸びと生活が出来るはずです。十数年前までは、木登りが盛んでした。木登りもてっぺん近くまで登ろうとしましたし、私どもはそれを推奨しました。ところが、近頃は、木登りをする子どもが少なくなってしまい、私が手本を示しても、「ばかばかしい」という顔つきで見ているだけです。

林の中に探検に出かけるのですが、以前の子どもはどんどん奥へ入っていき、それを追うのに大変でしたが、近頃の子どもはぞろぞろと私の後をくっついてくるだけで、ちょっとした草むらもいやがるのですから、探検になりません。

自然に恵まれ、思い切って草地をかけ回る事が出来る場所であるのに、部屋の中にいて、手先の作業をしたがります。戸外の遊びに誘うのがひと仕事になってきました。何人かの子どもは、「テレビがなくてつまらない」などといいます。

草地で裸足になるのをいやがる子どももいます。気持ちが悪いというのです。大地を裸足で踏みしめた経験がないからです。靴下をはいて、なかなかぬごうとしない子どももいます。

文明が、自然と対応する童心を失わせてしまっていることを、しみじみと感じる昨今です。恐らく、日曜日といえば、マイカーでカッコよく遊園地などで遊んでくるだけを教えた結果でしょう。

そのような子どもは、山へ連れて行き崖を登らせると、どのように登ったらよいかがわからずに、ただ四つん這いになっているだけですから、ずるずると滑り落ちるだけです。安全教育に必要な冒険の訓練が出来ていないのです。

今の子ども達、とくに都会の子ども達には、いろいろな機会を見つけて、自然に親しませることを計画しなければなりません。そうした自然の中で、自然を素材にして遊び場を作り出す力こそ、積極性を養い、創造性の芽生えを養うのに最も適していると思います。そのことに早く気づいて、両親も対策を立てる必要があると思います。

けんかを忘れた子どもたち:平井 信義:PHP文庫

 

自分が欲しないことを他人にしない

私は子供のころ、近くの友人を、手に巻きつけた輪ゴムの一端を放すことで痛い目にあわせて泣かせたことがある。

私には、泣いた相手の子がひどく大げさに思えて不本意だったが、それを見ていた母親が家で私をとがめ、母親は同じしぐさで私の手の甲を痛い目にあわせて、その時感じた痛みが大げさであるかどうか、自分で考え直せと言いました。

以来私は、思っていた以上に痛みの激しいそのいたずらを他人に対してしなくなりました。

確かに自分で味わったことのない苦痛は、苦痛に感じられないということを、我々は体験しない限り実感として味わうことは出来ません。そして、そうしたいくつかの体験によって、初めて相手に対する思いやりが生まれてくることを、親は子供に教えなくて

はならないのです。

いま 魂の教育 著者」:石原 慎太郎 発行:株光文社 より

 

 

 

福運を呼び込む

大事なのは、子供にどのような親のイメージを与えるかです。どのような環境にあっても「お母さんはお前の本当のお父さんを愛している。尊敬している。感謝している。誇りに思っている」というイメージを子供に与えなければなりません。

それが親たる者の根本的な分福であり、植福でしょう。それができれば、どんな環境でも子供は基本的な素直さを保持して成長するものです。

渡部 昇一

運が良くなるためには、女神に好かれなければならない。女神は笑いと謙虚を大いに好む

米長 邦雄 名人

惜福

たまたま自分に与えられた福を使い果たすことなく取っておくこと。そうすると、いっそう福が廻ってくるという。

分福

自分に来た福分を独り占めしないで、人と分かち合うこと。この工夫によって、よりいっそう大きな福がやってくる。

植福

たとえば農家の人が裏山に杉の苗木を植えておく。その杉の木が大きくなる。そのころ自分はすでに老いるか死んでしまうかして、その恩恵をこうむることはないであろう。しかし、子孫の役に立つこともあるだろう。そういうことで木を植えておく。これが植福です。

 

積極果敢な生き方を身につけた人は、この「惜福」「分福」「植福」の工夫に向かっている。この工夫のある人ほど、目先の利害にガツガツしない。

だからますます幸運の女神が微笑むといえよう。

人間における運の研究 渡部 昇一 致知出版

 

 

慈しむ母親

子どもから見て、昔の母親は慈母に映りました。朝早くから井戸端で子どもの衣類を洗濯し、夜遅くまで針仕事をしている母親の姿はどの子どもの脳裏にもこびりついていたのです。その前提として、貧しい生活からくる厳しさがありました。

貧しさに支えられ、骨を粉にし、心を砕いて、朝早くから子どもたちのために働きました。それには悲壮な面があり、そうせざるを得なかったのです。しかし、子ども達は、その姿に感激したのです。

今のように家庭生活が合理化し、家庭の経済が以前よりもはるかに豊かになって来て楽になったときに、うっかりしているとテレビばかり見ている母親の姿になってきます。そこには怠情な姿があるのみです。

現在の母親は、自己を充実させるためにどのようにしたらよいのでしょうか?

 

愛情から出発した母性に対する考え方も、愛情がはっきりと客観的に測定できない今日、どの母親にどのくらいの愛情があるかを言うことは出来ません。

それは、母親自身の心の内にありますから、絶えず問いただしていなければならないでしょう。子どもの気持ちになってみて、それを受容できるような母親になるように、努力することから始めなければならないのです。

そのためには、自分の中にある利己的な心を追求し、それを整理しながら取り除くことです。そうして慈しみのある母親になってくれることを、子どもは期待しているのです。

そのような母親は、子どもに「…をさせる」ということはしません。母親の考えた教育を子どもに押しつけようとしないでしょう。自分の思い通りに子どもを勉強させようとすれば、また、自分の思い通りの姿に子どもを作り上げようとすれば、鬼母になってしまいます。

それは、子ども自身で発達する力があり、自発的に自分の行動を考え出す力のあるのが子どもであるからです。それを援助するのが、お母さんの役割であり、思い通りに子どもを引きずり回すことではないのです。

慈母とはどういう母親か…・もう一度考えてみて下さい。

けんかを忘れた子どもたち:平井 信義:PHP文庫

 

 

子どもの言うことを聞いて上げよう

きょう,少し

あなたの子どもが言おうとしていることに耳を傾けよう。

きょう,聞いてあげよう,あなたがどんなに忙しくても。

さもないと,いつか子どもはあなたの話を聞こうとしなくなる。

子どもの悩みや要求を聞いてあげよう。

どんなに些細な勝利の話も,どんなささやかな行いもほめてあげよう。

おしゃべりを我慢して聞き,いっしょに大笑いしてあげよう。

子どもに何があったのか,何を求めているかを見つけてあげよう。

そして言ってあげよう,愛していると。毎晩毎晩。

叱ったあとは必ず抱きしめてやり,

「大丈夫だ」と言ってやろう。

子どもの悪い点ばかりをあげつらっていると,そうなってほしくないような人間になってしまう。

だが,同じ家族の一員なのが誇らしいと言ってやれば,

子どもは自分を成功者だと思って育つ

きょう,少し

あなたの子どもが言おうとしていることに耳を傾けよう。

きょう,聞いてあげよう,あなたがどんなに忙しくても。

そうすれば,こどももあなたの話を聞きに戻ってくるだろう

 

アメリカインディアンの教え:加藤 諦三:株式会社扶桑社

ウェイトリー:カリフォルニア大学客員教授

 

時代を超えて変わらぬ価値がある

親は、子供に、将来あさはかな流行に振り回される人間、そしてまた、社会の機構によって自分を変節せざるを得ない弱い人間にならないように、子供のころ、この現代時代おくれとなりあるいは滑稽と笑われはしても、過去の時代に、それが明らかに美徳であったひとつの習慣を、子供の前であえて見せる必要があるのではないでしょうか?

たとえば国民の祝日に一家そろっての国旗の掲揚の儀式でもいい。あるいは、坂道では、子供たちのおじいちゃん、おばあちゃんを親みずから背中に背負う、あるいはその背中を後ろから押すという習慣でもいい。あるいは食事のまえに、目に見えざるものに、感謝の祈りを捧げる習慣でもいい

いま 魂の教育 著者」:石原 慎太郎 発行:株光文社 より

 

 

 孝という文字そのものは子どもの親に対するものでありますが、それは表面だけの意味で、中へ入っていけば父を敬することが一番の本質です。

父の中に敬するに足るものを発見できる事である。言い換えれば、父が敬せられるに足る人間でなければならぬということです。

ところが小倅(こせがれ)の時にはなかなかこれがわからない。また親父もよほどしっかりしていないと倅に判らせられない。やはり子どもというものは死んだ親父の年くらいにならぬと、よく親父が判らない。勿体ないけれども、どうも順送りで仕方がない。

 中江藤樹先生はなかでも特に敬を重んじられた。愛は普遍的なもので、人間ほど発達しておらぬが、動物も持っている。しかし敬は「天地のために心を立つ」という造化の高次の働きであって、人間に到って初めて発達してきた心である。これは人間が進歩向上しようと思えば、必ず敬の心が湧く。湧けばまた進歩向上することができる。これあるによって人間は人間たり得るのです。

敬という心は、少しでも高い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心であります。したがってそれは同時に自ら反省し、自らの至らない点を恥ずる心になる。省(かえり)みて自ら懼(おそ)れ、自ら慎み、自ら戒めていく。偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、あこがれ、それに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥ずる、これが敬の心であります。

「人間学のすすめ」 安岡 正篤 福村出版

 

 

鶏卵を見て時を告ぐるを望む

すでに鶏になったのならコケコッコーと鳴きもしましょうが、

まだピヨピヨとも鳴かない卵にそれを期待するのは無理です。

幼い頃は皆自分本位です。

自分本位な行動から利己主義を昇華し、

そして利他主義にめざめる、

これが子供の自然な成長です。

ところがそれを待てない親がいる。

彼らは情緒的に未成熟なのです。

彼らは現実を無視して

その子供にしては高すぎる基準で、子供のすることなすことを批判します。

しかし、それでは、子供に「失敗しなさい」と言ってるのと同じです。

批判ばかりされた子供は、怒ってもいるし、悲しんでもいるのでしょう。

自分の不幸の原因を誰かのせいにしたがっているのです。

悪いのは自分ではないと……

アメリカインディアンの教え:加藤諦三:ニッポン放送プロジェクト

 

 

 

人間は生まれつき悪を持っている

親が子供に教えるべきことは、人間の持つそうした邪悪とも言うべき本性、とくに自分のうちに発見される邪悪さから目をそらすことなく、むしろ、それに挑む形で向かい合っていき、それを自分で抑えつけることで、そうした本性を大きなスプリングボードとして使えということです。

たとえば宮本武蔵は、当初、他に対して強い功名心や敵愾心から剣の努力を重ねたが、やがてそのわざに通達することによって、そうした自分の本性を抑え、淘汰し、剣聖としての境地を開くことができました。芸術にまで高められた剣も、しょせんは並の人間が持つ、世では邪悪とされている功名心、あるいは狡猾さ、敵愾心からしか生まれ得なかったことを教えるべきです

「いま 魂の教育 著者」:石原 慎太郎 発行:株光文社 より

 

 

 

愛・敬・恥

 

人間である限り、いかに幼稚でも、むしろ幼少であればあるほど純粋に、愛を要求すると同時に「敬」を欲する。「敬」を満たさんとするこころがある。子供は、いかにいといけなくとも、すでに3才になれば、愛の対象、まず母の愛を欲する。可愛がられたい、愛されたいという本能的要求と同時に、敬する対象を持ちたい。畏敬するという自覚はないが、本能的要求である。敬する対象を持ち、その対象から自分が認められる、励まされる、励まされたい、という要求を持っている。

この愛と敬が相俟って初めて人格というものがでていく。その愛の対象を母に求め、敬の対象を父に求める

 

自尊心を失い権威を放棄する父親

 近代の社会生活の激変に伴って、家庭生活もだんだん変化し、子供と父というものが何かにつけ疎隔してゆく。父そのものも仕事に追われ、世の中の変化に懸命に順応してゆくことができない。次第に自負心・自尊心を失って、「父たる権威というものを放棄する父親」が多く出来る。

子供というものは、本能的に分けて言うならば、母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕、こういう念を本能的に持っているものである。

人間と動物を区別するギリギリ結着の問題は「敬」と「恥」である。この二つは人間に根本的に大切なものであって、これを失うと人間という獣になる。

他の動物が持っていない知識・才能などをもつから最も悪質の獣になるのである。

敬」を建前とすれば、やがて「信仰・宗教」というものが発達し、「恥」という内省的なものが建前となると、「道徳」というものになっていく。

 

敬と恥

人間性が進歩向上しようと、ある偉大なものを求める時に生ずるのが「敬」の心である。その時に陰陽相対の理法で、必ず省みてそこに生ずる心が「恥」ということです。

子供が成長していく過程を見ても、非常に著しく現れるのが、「恥じる」「恥ずかしい」ということです。数えの三つぐらいになると、子供は非常に恥ずかしがる。これをうまく養成、培養すれば、非常に人間らしい人間、立派な人間になる。これに敬の対象を与えることによって、すなわち「敬することを知らしめる」ことによってますます立派になる。ここから道徳心が生まれ、それを根本にして宗教心というものに発展するのである。

子供の持っている潜在的な本能、それから生ずる衝動は、愛と同時に大人にはわからないが、非常に敬というものがある。敬する対象が欲しい。そうして敬する対象から己が認められる、励まされる、ある場合は叱られる、恥ずる、恥ずかしく思う。そういう心理が非常に大切なのであります。子供には理屈はわからない。それは八才、九才、十才頃になるにつれてようやく身についてくるものです。

子供というものは、本能的に分けて言うならば、母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕、こういう念を本能的に持っているものである。

人間と動物を区別するギリギリ結着の問題は「敬」と「恥」である。この二つは人間に根本的に大切なものであって、これを失うと人間という獣になる。他の動物が持っていない知識・才能などをもつから最も悪質の獣になるのである。

「敬」を建前とすれば、やがて「信仰・宗教」というものが発達し、「恥」という内省的なものが建前となると、「道徳」というものになっていく。

 

「易」の理法からみた宗教と道徳

少しでも高く、尊く、大いなる存在に向かおうとする本能、この心の働きが、人間に、「敬する、敬仰する」という心を生ずるようになった。

「仰ぐ、参る」ということがあると、今度は必ず「返る、省みる」という働きがある。これによって「恥づる」という心が生まれる。

仰ぐ−敬する。省みる−恥づる。この相対性真理が人間の根本的な「徳」です。

「立派な人は、偉い人はそんなことしませんよ」と言えば、子供の「敬」の心に訴える。そして必ず、少しでもそこへ近づこうとする。

これを「参る」という。この言葉は本来、敬するものへ近づこうとすることです。

参れば必ず進んで尽くしたくなる。その人のために、自分を犠牲にしていろんなことがしたくなる。これを「はべる(侍る)」、「さむらふ(候ふ)」、「まつる(祭る)」とかいう。(宗教)

これに対して省みて恥づるから戒める、慎む、畏れる、律する等の心の働きが起こってくる。(道徳)

安岡 正篤

子どもの喧嘩に親が出る

兄弟喧嘩は、その年齢が低ければ低いほど、そして年齢が近ければ近いほど、喧嘩をするものです。

寄るとさわると喧嘩をしている兄弟であっても、家庭から離れると、かばい合い、上の子は下の子の面倒を見ますし、下の子も上の子に従っています。あるいは母親のいない日には、家の中で仲良くしていることが多いでしょう。それは、母親が子どものけんかに口を出したり、手を出したりすることがないからです。

友達を求めて積極的に遊ぼうとする年齢は3,4才ですが、それ以後、たびたび友達とけんかをくり返しながら、自己主張の方法や協調して遊ぶ方法を学習していくのです。けんかをしなければそれらの方法を学習することは出来ません。

とくに、自発性が確立してきますと自己主張も多くなりますから、けんかも多くなります。遊びにも全身を打ち込んでいる子どもは、なかなか友達に譲ることが出来ません。ですから、激しいけんかをします。その意味で、激しいけんかをする子どもが「よい子」と言うことが出来るのです。

このような子どもは大人が介在しない限り、けんかをしても、またすぐ遊びます。

子どものけんかに大人が出るなということを、固く守りたいものです。

まして、けんかをしてすり傷や掻き傷を負わされても、「誰がしたの?」などと問いただすような情けない親にはならないように努力しましょう。

最近の両親のなかには、子どものけがを見るとすぐに相手の家に電話をかけたり、学校へ連絡したりします。

このような両親は、きまって過保護です。それが、自分の子どもを精神的虚弱児にしてしまっていることに気づいていないのです。

そのような親たちに押しまくられて、教師の側でも腰がくだけ、「申し訳ありません」と言って謝ったり、けがをさせないようにと真綿で子どもを包んだように過保護に扱っているのも、実に情けない教育状況だというほかありません。いきいきと活動している子どもは、どうしてもけがをします。「よい子」には教師が注意をしていても、けががつきものだと言ってもよいでしょう

 

けんかを忘れた子どもたち:平井 信義:PHP文庫

 

教育の基本は敬

いたいけな子供は愛で育つと、今までもっぱら力説されておりました。

「論語」や「孟子」などを読むと、それでは足らぬ、さらに「敬」が必要だと書いています。子供は愛を要求すると同時に「敬」を欲する。可愛がられたい、愛されたいという本能的要求と同時に、敬する対象を持ちたい、そしてその対象から自分が認められたい、励まされたい、という要求を持っています。

その愛と敬が相まって初めて人格ができていく。

愛の対象を母に求め、敬に対象を父に求めます。

「立派な人はそんなことはしませんよ」と注意すれば、子供の「敬」の心と「顧みる」心は連動しているのだ。そしてそこから自分は「恥ずかしい」と思う気持ちが働きだす。

注意しなければならないのは、恥ずかしいと思う気持ちは尊敬するような人格に触れたときに起きるということだ。

安岡 正篤

 

親子関係

子供というのはおそらく親の直接のお説教よりも、親の生き方から学ぶのです。

子供は親から「我慢強くなければいけない」と教えられて我慢強くなるわけではないのです。

胸に燃えたぎる炎をいだき、しっかりと家族を導くのを大切にした父親の姿が、息子にがんばりを教えるのです。

母親は、幼児の身体的要求を満たすだけでなく、心の安全をも守る。

母親がじゅうぶんに役割を果たさなければ、子供は健やかに成長することが出来ません。

私は、さまざまな人間関係の中で、親子関係は特に大切なものと考えています。

それは、親子関係が、すべての人間関係のスタートになるからです。

親子の間で満たされるべき感情が満たされた人は、友達ともうまくいき、恋人ともうまくいきます。

そうして他人と協力する喜びを知ります。

そのように親密なる力をもった人は、会社などでもうまくいくのです。

親にじゅうぶんに愛されて育った人ならば、やたらに他人の注目を集めたがったりしないし、愛を神聖視して他人に「絶対の愛」を求めないのです。

ですから皆から愛されるし、祝福される人生を送ることが出来るのです。

 

アメリカインディアンの教え:加藤諦三:ニッポン放送プロジェクト

 

親は子どもの手本

子どもは常に、親から学んでいます。

子どもは、いつも親の姿を見ています。

ああしろ、こうしろという親の躾の言葉より

親のありのままの姿のほうを、子どもはよく覚えています。

親は、子どもにとって、人生で最初に出会う、最も影響力のある「手本」です。

子どもは、毎日の生活のなかでの親の姿や生き方から、

良いことも悪いこともすべて吸収してしまいます。

口で何かを教え込もうとしてもダメなのです。

親がどんなふうに喜怒哀楽を表すか、

どんなふうに人と接しているのか、

その親の姿が、手本として、

子どもに生涯影響力を持ち続けることになるのです。

子どもは、本当に日々親から学んでいます。

そして、大人になったとき、それを人生の糧にして生きていくのです。

ドロシー・ロー・ノルト著 : 「子どもが育つ魔法の言葉」: PHP研究所

 

躾(しつけ)

人間としての在り方を美しく自然にするもの

 躾という字はうまく出来ている。「身」という字を偏にして、「美」という字を旁にした。これは日本でこしらえた字でありますが、まことによく出来た字です。体をきれいにする。人間としてのあり方、生き方、動き方を美しくするものです。

安岡 正篤

 

正座

ここぞと言うときの注意は、正座して聞かせる

 武道の世界では、正座するということは、すぐには立てない、動けないということから、攻撃の意思のないことの表明だとも言われます。立ち会いの前後に、神妙に正座して礼をするのは、勝負の公正を期すためとも考えられます。

いずれにしても、正座して面と向かうことは、真剣な対峙の時間を作ることであり、場合によっては、じっくりと腰を落ち着けて話し合うための形でもあります。とくに、日常的な生活の中にない非日常性を演出することによって、子供にただならぬ雰囲気を感じさせれば、すでに言葉による注意が必要ないほど、雄弁に叱咤や訓戒の効果は上がるのです。

しつけの知恵 多湖輝 海竜社

 

子どもが側にいるときには

 

自分にやさしくなれれば子どもにもやさしくなれます。

どんなことでもいいのです。毎日必ず子どもをほめてあげてください。

「大好きよ」と言ってあげてください。

親だって普通の人間です。

その子の一番の長所を思い出してください。必ず光が見えてきます。

子どもは親から、親は子どもから学んでいます。

子どもが、いっぺんに親の思いどおりに変わるなんて、そんなこと決して思ってはいけません。

気づいてください。子どもたち一人ひとりの違いに。

大切にしてください。その子だけが持っているものを。

子どもがそばにいるときは心に光をともしてください。

子どもはそれを見て、感じて、そして、光を返してくれます!

ドロシー・ロー・ノルト著 : 「子どもが育つ魔法の言葉」: PHP研究所

 

 

教育とは「垂範」である

 

道徳というものは刑罰でもない、理屈でもない、最も真実・自然なのだから、そこで道徳教育となると、指導者・師たる者が言論よりも方法よりも、強制よりも何よりも、自然に自らがお手本になるということです。身をもって垂範する。先生が生徒のお手本になるというのが教育です。

子供は理屈はわからなくても、お手本を見て倣うものです。模倣模倣というけれども、模倣は感化で、人間の本能です。子供は何もいたずらに模倣するのではない。化せられるのです。家庭における子供の躾ということは、子供を叱ったり、強制したりすることではない。父母のあり方が自然にお手本になることなのです。

安岡 正篤

 

小中学校の教育

小中学校の教育は、何を本体として何を付属とするか。言うまでもなく、人間の徳性や良習慣、即ち「躾」が本体である。人間の徳性や良い躾をするということが、教育の根本で、知識や技術はそのつけたしでよい。いきなり大学へ入れるわけにはいかないから、その予備校として高等学校をつくる、そのあと専門学校や大学で今までに出来た性格的・人間的基礎の上に知識や技術を本筋に教えて良いのである。

尋常小学校

尋常の意味は「常を尋ねる」であり、「平常心これ道」と言い、人間はいかなることがあっても平常と変わらぬ、平常からちゃんと覚悟が出来ていることが大切です。

この「常を養う」のが尋常教育である。即ち人格を鍛錬陶冶(トウヤ)して、その上に知識・技術をつける。この知識・技術を主体とするところが専門学校、この専門教育と尋常教育に分けて、尋常教育を小学校と中学校にしたわけである。

安岡 正篤

 

 

励ますことのむずかしさ

 

周囲の人を見返そうとして子供を「励ます」親は、子供の力を信じないので、

子供が失敗をし続けているとき子供を励まし続けることはしません。

それどころか子供の失敗にいらだち、子供の才能の限界に怒るのです。

 

励ましが必要なときに、人はその人の側から逃げていき、

励ましが必要でないときにその人のもとに寄ってくることが多いのです。

励ましが必要なのは失敗したときです。

子供が失敗し友達が逃げて行くときこそ励ましが必要です。

 

そして賞賛や、尊敬をしつように求める人は

それが得られないと今度は子供で勝負しようとするのです。

子供は何が好きか、何に向いているかなどは関係なく

子供を成功させようとするのです。

そのような親に、子供を励ますことは出来ません。

 

自分自身の潜在的能力を、自分自身が成長するために使わないで

他人を操作するために使う人がいます。

そのような親は子供を励ましているようで

実は子供を操作しているということがよくあります。

励ましを操作の手段として使うのです。

しかし、それは励ましではなくお世辞です。

 

子供を励ますということは、子供がしたいことを励ますのであって、

親が子供にさせたいことを、やるように励ますのではありません。

子供を自分の望むように変えようというのではないのです。

子供をありのままに受け入れるためには大変な忍耐力、寛大さが必要です。

子供の才能に非現実的な期待をかけたりしないことなのです。

あるいは子供のすること、言うことに「そんな下らないこと」とか、

「そんな馬鹿らしいこと」などと言わないし、思わないことでもあります。

自分の考えている子供像を子供に押しつけないということです。

励ましに必要なのは寛大さです。

子供の現実を受け入れ、その上で励ますときに、

それは子供に自信を与えるのです。

アメリカインディアンの教え:加藤諦三:ニッポン放送プロジェクト

 

 

励ましで氣をつけねばない三ヶ条

 

            励ましのつもりが脅しにならないようにすること

子供に強く優れていることを期待しながら、その裏で強く優れていなければ愛さないという姿勢、雰囲気、態度は子供に自信ではなく、ストレスを与える。自信どころか不安にさえなってしまう。

 

2.            励ましが自信を失わせることのないように

恐怖心が強い親は、子供が何かするのが怖くて仕方ない。

子供が木登りをしていれば、あぶない、と言ってやめさせ、子供がガラスに近づけば、壊れるからあぶない、といって叱り、火に近づけば火傷をすると大騒ぎをする始末です。

そうすると子供は自分のすることで安全なものは何もないと信じるようになり、大人になって自分で何かを決めるとき大変な困難を感じるようになる。

このような親が一方で「勇敢であれ、勇気を持って行動しろ」とか「勉強しろ、働け、努力しろ」と言いながら、他方で普通の子供なら誰でもするようなことにたいしてまで「あぶないからやめなさい」という禁止令を出す。

子供は2つの矛盾した指令の中でそれをどう解決していいかわからなくなります。

 

「子供に自己実現(自分の潜在能力を発揮すること)させることが親にとって最も大事である」そのためには「両親の役目は、第一に子供を危険から遠ざけておくことでなく、怪我をしたときに備えて、バンドエイドを十分に持って、子供のやることを見守ってやることである」

 

3.            非現実的な励ましをしないこと

本当にその子の素質、適性を考えて励ます。いきなり高い目標を掲げたりせず、次第次第に目標をあげて成功が成功を呼ぶような励ましが大切です。

「楽観主義は、現に説得力があれば非常に役立ちます。だから現実的な目標を目指すことですね。その子がもし六位が精一杯であれば、六位を目指せと私は言います。友達が今二番手のビン洗いだったら、明日は社長になれるなんて言わないことです。信じなかったら何もなりません。一番のビン洗いになれと言ったら猛烈にがんばるでしょう。息子が前回の試験で可をもらったら、今度はきっと良になれると言ってやるのです。」

 

アメリカインディアンの教え:加藤諦三:ニッポン放送プロジェクト

 

 

 

昔は、父親はりっぱだった
それを支えていたのは、儒教でいう「義」だった。
父親は子に義をつくせと孔子はいった。母親は子をかわいがればよいのである。
ところが最近の父親は粗大ゴミなどといわれるのをおそれて、子に耳ざわりのいいことしかいわない。猫かわいがわりするから母親との役割分担ができず、子どもの方は野放図にかわいがられて大きくなる。それでは困るのである。
父親は憎まれても道理を教えなければならない。
そもそも「義」という文字は「羊」と「我」から出来ている。羊は中国で最高の価値あるもので、「義」のある人間はもっとも価値ある「我」である。「義」に「言」をつけたものが「議」だから、会議とは会合してことばによって美しい自分をつくることだ。
キリストを抱いたマリア像がある。母は自然に慈をあたえていることになる、ということであろう。
しかし父親は、自然ではいけない。あえて理知を持って道理を教える。子どもの甘えを時にはきびしく拒否する必要がある。
この父と母の関係を、胸と背中にいいかえることが出来る。母は子を胸に抱きかかえよ。反対に、父は子に背中を向けよ。父親が背を向けたために子どもが離れていってしまっては、父親失格である。
自分にあえて背を向けた父親のどっしりと広がった背をみて、子が全幅の信頼感を持ち、先に歩いていく父親の背をみながら後をついていく、そのような父親こそ立派な父親である。
母親の慈だって、やさしいようでそれほどやさしくない。自分が優位に立っていなければ愛せないのである。姉妹のような母子など、本当の慈があるのであろうか。


母は子を育て一人前の大人にする
それは我が身から突き放すことだから、通常の愛、つまりわが身に引き寄せる愛とは逆で、この苦しみに耐える点で、母性愛は最高の愛だ。
いまの日本の母親はよく「あの子もむかしは言うことを良く聞いたのに、近ごろは聞かなくなった」と嘆く。いつまでも自分の掌のなかにおいておきたいと思うのに対して、突き放すことも愛であるということが愛というのが理解できていない。
要は夫婦親子それぞれが立場を自覚すること、さらに立場を異にしながら人間的信頼によって結ばれることが、家族という集団を成り立たせるということだろう。


                    
「日本人の忘れ物」中西 進 (株)ウエッジ より

 

昔の遊び
遊ばなくなった子供は、いくつもの大きな忘れ物をしている。
なにしろ遊び相手という、対人関係がなくなってしまったのだ。
人間は相手との往復関係の中でどんどん成長していく。
それがなくなることは、成長がゆがめられることを意味する。
遊び仲間には年上の子もいるし同年、年下の子もいる。
その中で成長するはずの、大きな教育の場を失ったということだ。
しかも遊びでは原則として実力本位だから、強いものが勝った。そのためにいろいろ工夫した。
ベーゴマという遊びがあった。
コマを回して相手のコマをはじき飛ばせば勝ちである。だからコマのまわりを削り、鋭くとがらせておくと強い。いかにも勝負強そうな悪ガキは、精悍な形をもったコマを作り上げては、ちらちらと見せた。
正月には近所の草原に集まって凧をあげた。
凧の本体だって作ることもあったが、店から買ってきた凧にしても、新聞紙を細長く切ってつないだ尾をどれぐらいの重さや長さにすればよいか、様々な工夫がいった。軽いときりもみになって落ちてしまう。もちろん重いとあがらない。
風が少ないときは走ると多少あがる。しかしそんなことをするのはガキっぽくてこけんにかかわる。年かさの子は年かさらしく悠然とかまえながら、しかし立派にあげるのである。
メンコという遊びは一番人気があった。
自分のメンコを地面にたたきつけ相手のものを裏返しにしてしまう。すると自分のものになる。そのためにはメンコに威力がなければならない。密かに蝋を塗って重みと力をつける。
竹とんぼなどは、まさしく手作りだった。
竹を切って軸と羽を作り、くるくる回して高く飛ばす。よく飛んだ方が勝ちである。
竹とんぼは軸穴が大事で、大きすぎるとまったく飛ばない。狭くても引っかかる。ほど良さがコツだ。そして羽の削り具合が絶妙で、羽の薄さ、カーブの付け方がすべてを決定する。こうした高級なことは、とかく都会っこは苦手だった。
このような遊びには手作りの創意工夫が必要で、作り上げたものには大変な愛着があった。なくなればまた買えばいい、といったものではない。
しかもこの創意工夫は勝負という対人関係から出てくる。つまり人間関係から生まれる「対話」のなかで、子どもはそれぞれより上等な立場を作っていくことにしのぎを削るのだから、ひとり遊びで無言の塀にボールを投げつけているのとは、わけがちがう。
どうしたらメンコを一枚でも多くとれるか。それをつまらないことというのは当たらない。
勝負という「対話」をはげしく交わしながら自分を訓練していくところに、昔の遊びの値打ちがあった。

                   
「日本人の忘れ物」中西 進 (株)ウエッジ より

 

大人のまねが出来ない現代っ子

「鬼ごっこ」は「鬼ごと」が変化したもので、「ごと」は古くは「こと」といった。「こと」は「〜のようだ」どころか、「同じ」という意味だ。
つまり「鬼ごっこ」は「鬼と同じ」、「ままごとは「まま(まんま)と同じこと」をする遊びである。「兵隊さんごっこ」「戦争ごっこ」「学校ごっこ」など、それぞれまねをして遊ぶことである。
こうした「ごっこ遊び」は、それぞれ大人たちのやっていることをまねする遊びだから、知らず知らずのうちに大人たちのやり方を身につけることになる。同じ仲間のなかにいる年上者がしぜんに指導役になる。彼が鬼からの逃げ方、戦争の仕方をおしえ、彼女が主婦役をつとめて年少のものは来客や子どもになって、少しずつ「ままごと」の家族が作られる。
まねごとを通していままでの子どもは少しずつ大人の習慣や振る舞いを身につけてきた。その過程が、もう無いのである。
むかしはいろりを囲んで家族が集まり、子どもはそこでいろいろなことを学んだ。家族が集まらなくてもおじいさん、おばあさんが昔話をしてくれたりして、彼らを中心に子どもの輪が出来た。
いろりもなくなり、核家族となった現代の家庭のリビングルームの主役は、テレビである。画面が低俗な歌や踊りやお笑いを、一方的におしつけてくる。
テレビと向かい合っていても「対話」はない。
勝負という「対話」をはげしく交わしながら自分を訓練していく、メンコ、たこあげ、ベーゴマ・・・
「いろはがるた」から自然にこどもの脳裏に刻み込む道徳・・・
子どもから大人への通過点を遊びから学ばせた「ごっこ遊び」・・・
むかしは遊びから、自然に人間教育がなされていたことがよくわかります。
今は、ほとんど無くなってしまった。


                    
「日本人の忘れ物」中西進 (株)ウエッジ より

 

感想

まだまだ空手を通じて教育としての空手を研究されておられます。流石日本の医学を研究する大学です。

現代の空手家にこの様な教育としての空手を推進されて居られる人がおられる事が私自身励みになりました。

流派や会派に囚われず、純粋に空手・(道)を追求されておられる事に感服、是非にこの方の出身校のHPを見てください。
正和館 師範